(半蔵門だより)

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ハンゾーモン 半藏門 江戸城内郭の城門の一。一に麹町御門ともいふ。吹上禁苑の裏に當る。名稱は門内に服部半藏正就の屋敷があったので名づく。半藏御門。

出典:「大辞典」第21巻 昭和11年5月刊 平凡社 発行者下中弥三郎

抜粋 2022・6月

大衆文学における「文学者の生活」の研究 〔2〕 坪内逍遙著「柿の蔕」より

田沼

明治廿三年の文士会

 二葉亭の話へ戻る前に、矢野、徳富、幸田の諸家を引合ひに出した因(ちな)みに、明治最先の文士会の事をいはう。もっとも、其会は誰れの発企であったやら、又はその第一会は、たしか明治二十二年であり、場所は芝の三縁亭であったとは思ふが、果して同年の何月であったやら、さツぱり憶ひ出せない。左に古日記の記事を祖笨(そほん)なままに引抄する。廿三年一月十一日の記事である。

「(前略)夕刻(五時半)萬代軒行き。今宵は文学会の初めの会なり。前々会以来少壮連加はりしかば、此会大いに賑へり。例の通り酒は無しにて、会費は五十銭のキマリなり。」

 万代軒といふのは、其ころ神田では有名な西洋料理店。木造ペンキ塗りの二階建て、萬世橋附近にあった。初めの会とあるのは、廿三年に入っての初めの会といふ意味らしい。

 前々会とあるのを見ると、これが第三会であるらしく思はれるが、前々の会の事は更に記憶が無い。(それを補ふものは大正十四年十二月及び翌年一月発行の『書物往来』所載、美妙齋記「明治文壇叢話」である。何かの参考用にもと附記しておく。)私の古日記には、次ぎに左の如き印象評が書き添へてある。(括弧内の註は今度書き加へたのである。)

「学海  例の通り、快活、毫も城阜(じょうふ)を設けざる如き磊落なる言動の間、おのづから用心あり。

好んで議論す、然れども決して怒らず、叉口ぎたなくは他を評せず、随分つツ込んで難ずることはあれども。讃(しな)むる時には、毎々に『非常に』、『おそろしく』等の形容言を用ひ、幾度も繰返しつつ言ふ。己れをほめられたるときは、わざとかと思はるるほどに、如何にも嬉しげなり。

蘇峰 相変らず言葉づかひ鄭重、態度沈着。

だれに対しても同じ調子。不在の人の噂をするにも、古人を評するにさへ、極めて丁寧、必ず『あのお方』といふ。『近ごろ評判の西鶴といふお方は』といったやうな風なり。其師新島襄氏の感化かと思ふ。近松作の批評が始まりし時、予が心中物を激賞せしに『情死者の事を書いたものなぞを!』と眉をひそめたるなど。

露伴  此日は大ぶ酒気ありて、意気軒昂、あちこちと歩き廻り、論議豪放。懐中より一書のはみ出でをるを見て、何の書なりやと問ひし者あり。『北女閭奇談』(起原?)を借り来れるなりと答ふ。何人かが(学海?)傍(かたわ)らより戯れて『これは怪しからん。廃娼論の盛んなる目下に』と詰(なじ)れば、大声にて『あれは愚論だ!大愚論だ!』と、勢ひ当るべからず。

南翠  いかにも親しげに予の傍らに坐して、何くれとなく語り、つと立ちて予が洋服の襟のゆがみを直しくれたる、『近ごろはお作に大ぶ也有が出ますな』と『読売』に載せたる予の近作を評したる、何かの話のはしに、傍らの誰れかに向ひて、『斯うニコニコして黙っている人が却ってこはいのですよ』と言ひたるなど、例の如く如才なし。

忍月  酒気芬々、前はだけに着流して、いぢかり股して歩きながら、ずっと一座を見渡して『南翠はいないやうだからいふが、「破魔弓」は何だ!まるで取り所なしだ。それから……』といひかけて、『美妙もいないからいふが、あの新體詩は……あんな物アしやうがない、云々』。すぐ向うに美妙がいたる、笑止なり。『こりゃ手きびしいね。そのいけない訳が聞きたい。只いけないではわからないよ。え、どこがいけない? さ、それを聞かう』と快活に、磊落(らいらく)に、美妙に代って、議論を買って出て、すぐ其隣の椅子へ腰を掛ける学海。

美妙 例の通り、おとなしやかに、言葉ずくなし。瀟洒(しょうしゃ)な洋服、漆黒な髪を綺麗に分けて。

紅葉 『徳富さんが是非にといふお勧めですから』といふ断りと共に、多少の滑稽をまじへた冒頭があって、『漢字を㾱して仮名ばかりにすべし。わが仮名は綴音(シラブル)を代表するゆえアルファベットに優れり。就中、新聞事業には漢字は不便なり、』云々といふ演説暫時。冒頭の滑稽をたれ一人ニヤリともせず聞きしゆえ、如何にもやりにくさうなりき。」

自分が紅葉に初めて会ったのは『読売』の客員になった時で、此会よりもずっと前である。それは半峰(高田)君の紹介で、処は忍ばずの長蛇亭であった。如何にも人好きのする男で、一見舊知のやうな感があった。幸田君と知りあひになったのもやはり其ころだった。二氏とも余丁町一一弐の舊宅へ一度訪ねて来てくれられた。

「不知庵(魯庵)  近眼鏡を掛け、低声に善く語る。博覧多聞、いかにも才子らし。頻りに其周囲を相手に、西鶴の作の妙を吹聴す。露伴突如として問ふ。『おい、君は一體西鶴をどこが旨いと思ふ?』不知庵言下に、例の極冷かに、徐(しず)かに、上目で見返りながら『さ、作が』と只一言。酒気ある露伴天井を仰ぎ、磊落に『面白いな!』と是れも叉只一句。不知庵平然、しかし内々得意の體、わざと露伴とは語らで、傍らの梅花と語る。此禪問答めきたる呼吸をかしかりき。但し其次ぎの瞬間には露伴と相対して、『作家は主として其着眼を養はざるべからず。文章(文飾)は末技のみ』といふ持論を盛んに論談しをれり。此他、森(槐南)の洒脱(しゃだつ)なる應接ぶり、末兼(後に宮崎八百吉、號湖処子)の宗教主義、中西(梅花)の満足主義、淡島寒月の通、井上通泰の邉幅を飾らぬ書生風などさまざまあれど、ここには洩らす。

此夜、紅葉以外の文庫連は来らず。
中江(兆民?)、朝比奈(和泉)、森(鷗外)、大槻(文彦?)、矢野(龍渓)、小中村、落合等も来らず。(発企人の一人らしき森田思軒も?)
十時過ぎ帰家。」

 私の記え書きは、ほんの是れツきりで詰らぬものだが、矢野、徳富、幸田、朝比奈の諸氏に聞き質したなら、或ひは何か面白い追憶があるかも知れない。按(おも)ふに、此文学会の抱負は、例へば、エリザ王朝に於ける人魚クラブの文士会――ベン・ヂョンソンやシェークスピヤやフィリップ・シドニーやウォーター・ローリーのそれ――をも、十八世紀に於けるトルコ頭のそれをも――博士(ドクター)ヂョンソンやゴールドスミッスやレーノルドやバーク、シェリダンらのそれをも――凌がうといふ意気込であったらしいが、たしか此第三回あたりが打切りであったらう。竹のやは一度ぐらい出たかも知れないが、緑雨と二葉亭はとうとう会員にならずじまひであったかと思ふ。

 

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