(半蔵門だより)

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ハンゾーモン 半藏門 江戸城内郭の城門の一。一に麹町御門ともいふ。吹上禁苑の裏に當る。名稱は門内に服部半藏正就の屋敷があったので名づく。半藏御門。

出典:「大辞典」第21巻 昭和11年5月刊 平凡社 発行者下中弥三郎

2021年5月15日

よしなしごと〔3〕奥州っ子

引地 正

私は、昭和38(1963)年頃長男が生まれたのをしおに、田園調布から現在の福岡、ふじみ野に移ってきた。田園調布は、訪れる人も多くてにぎやかであったが、なにしろ狭い。大家の吉田家も広くはなかったが、そこに間借りしている身では贅沢は言えない。ちょうどその頃凸版印刷を定年になった舅が福岡に家を新築したので、その余徳にあずかったのである。もちろん、そうなったからには大学以来つかず離れずに続いていた交遊関係も見事に整理することになったし、私自身目前の慣れない仕事に集中するようになった。やはり、福岡は遠かったのである。

 その頃の写真を見ると、我が家の狭い台所のようなところに集まって、何事かを議論している。H君もいるN君もいるし、Y君もいる。しかし私は、その中にあって密かに自分が求めていることに集中できないことに焦っていたのだったと思う。私は小さな出版社文雅堂書店の編集部に入ったばかりで、編集のこと、印刷のこと、取材のこと、そして何よりも目の前を流れていく現実的な問題も捉えきれずにいた。経済のことも金融のことも、そしてその上を流れていく政治問題も日常問題として捉えきれずにいた。

 それは当然の話だったと今では思うことができるが、その渦中の具体的な問題の前ではなかなかそうはいかなかった。

 例えば利殖の問題、現実の給与が生活していくのに十分でないとしよう。では、どんな生活をするのにそれは必要なのか。それを満たすのに何が必要なのか。自らの労働価値を高めることか、それとも利殖によって将来のある時点で計画的に満足できる生活を手中にすることか。また、労働価値は相対的に定められるから組織によって労働分配率を上げることによって獲得するか。あるいは分野を替えることで高生産性を追求していくのか。

  様々に議論したり考えたりしたと思うが、現実的には長男が幼稚園に行くようになって突如解決されることになったのである。その長男を幼稚園に連れて行った母親が、その幼稚園の園長に手伝いとして採用されることになったのである。しかもそれはそこそこの高給で、経済的にはそれによって家計はプラスになり、家庭経済の問題は緊迫性を失うことになった。

 他愛もないように見えるが、だからといって私の労働価値上昇のための課題も緊張も衰えることはなかったように思う。なにしろ、舅が大家になったようなものであるから、支払い能力の更新は礼儀というものでもあった。

 

 もう亡くなってしまったが、このK幼稚園の園長はこの辺りの有力者である。学校は川越の女学校にしか行かなかったが独立心が強く、戦後の混乱の中で洋裁学校を起こした。これは技術不足のためか成功しなかったが、将来を見つめて起業した幼稚園は成功しつつあった。その実力は誰もが認めるところであった。ただ彼女には、ますます競争の激しくなりつつある幼稚園業界において、このままでいいのかという焦りがあったのかもしれない。彼女は相談相手に園児の母である府立第2高女の卒業生を得て、ますます幼稚園教育の将来に積極的になったようであった。

 なにしろ、通常の幼稚園業務の外ではいつもこの相談役と二人きりだったようだから、園長も園長個人のことも、この地方独自のことも、様々に話したらしいのである。多分その中で私の話が出たであろうことは、想像できる。大学時代は苦学生であったこと、故郷は仙台の北であること、そして見るべきものは秋の稲穂の波の美しいこと、老父母の優しいことも言ったかもしれない。

 多分、そこで園長は思い出したのである。川越、福岡、古谷、加えて富士見等の古い開拓地などには、昔から子守りとして連れてこられた学齢の子供たちのいたこと。その子供たちの出身地が「奥州辺り」であるということ、この子たちは真面目でおとなしいということは手慣れた仲介人によって知らされていた。そのイメージと私の苦学生の経歴が、園長の中でつながったのかもしれない。

 今考えれば、仲介人は飢えた東北のどこかの村の学齢の子供を多分買って連れてきたのであったろう。法律的には、人身売買は禁止されているから、手伝い、子守りというかたちで仕入れて、この武州の辺りにも幾十人となく連れてこられていたのだろう。それを考えると、胸の苦しくなるような話であった。彼らは確かに子供であるから、学齢であれば学校に行かなければならない、あるいは行かせなければならない。が一方で、彼らには商品価値として役目からも逃れることはできなかったはずである。

 園長の話によると、よく働いて手伝ってくれる子にはその家から嫁として出してやることもあったと。嫁として出してやるというのは、花嫁道具を揃えて嫁入りさせるという意味で、その主人の家の娘としてという意味ではないが、10年余もいるのが珍しくなかった。それほどに地についたならいで、その子供たちのことをこの辺りでは「奥州っ子」と呼んだという。

 この「子守り」という言い方は、私にも覚えがある。私の出身地の田舎で使う場合、学齢の子供を働かせるという意味で、もちろん報酬は伴うから親がいわば売るのである。制度としての学校はあるが、「子守」がある時には学校に行けないし、その他の仕事でも農家の手伝いが必要な時には学校は休ませる、というものである。この場合はしかも、子供は一人で集団になることがないから雇い主の言うとおりで、子供の意志が通ることもなかったに違いない。

 この園長さんの言っている「奥州っ子」がいたのはいつ頃のことか。園長さんが生まれたのは大正12(1923)年であるから戦前の1945年までの記憶であろうことは想像できる。また、この武州の辺りは戦前戦後の物資不足の時代にはその対応に追われていたであろうことも想像できる。ではその時は「奥州っ子」はどうしたのだろう。国家総動員令が交付されたのが昭和13(1938)年である。その後に「奥州ぇ子」は供給されることはなかったのだろうか。

 

 例えば、結城哀草果という歌人は、「売られゆく農村の子女」のなかで次のように書いている。

 

「昭和3年の歳の暮れも押し迫ったある日、山形市の北方12マイルのTという小駅は午後6時の上野行列車の発車を前にいつにない混雑を極めていた。この不景気に上方見物の団体でもあるまいと見ると、それは女工に売られていく農村の子女と、その可憐な娘らを見送る父母兄妹達であった。娘達は赤みを帯びた髪の毛に油を付け、木綿の晴れ着を着てバスケットを提げていた。見送る父兄たちは藁埃の溜まった汚れた着物に着膨れ、手鼻をかむので親指と人指し指の腹は黒く汚れていた。娘たちと父兄たちの中を唇の薄い中年の男の募集員が軽い愛嬌を振りまいて歩いている。

 発車間際の汽車の窓に、娘たちは小鳥のような可憐な顔を並べて、見送りの父母兄妹に別れの言葉を交わした。

 「そんでは行って来るさけなァ」

 「まめで働けョ」

 お互いに交わした言葉はたったこれだけであった。そして、北国型の無表情な顔には涙を溜めていた。」

 

 このような情景が、「奥州っ子」の出発だったのかもしれない。

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