メディア・コンパス

半蔵門だより

ハンゾーモン 半藏門 江戸城内郭の城門の一。一に麹町御門ともいふ。吹上禁苑の裏に當る。名稱は門内に服部半藏正就の屋敷があったので名づく。半藏御門。

出典:「大辞典」第21巻 昭和11年5月刊 平凡社 発行者下中弥三郎

メディアコンパスは、トランスクリプション、翻訳、出版界に長年携わっている
株式会社エサップによる、昨今メディアへの考察になります。

抜粋 2022・6月

大衆文学における「文学者の生活」の研究 〔3〕 正宗白鳥著「文壇五十年」より

田沼

貧しい明治の文学者
――その人生とその死

 明治以来の知名の文学者の死について、私は考えている。他の社会の人々とはちがって、文学者は自分の作品を残しているのだから、この人はこれだけの事をなし遂げて一生を終ったのだという事が明らかに分っているところに妙味があるのである。

 明治の文学者は概して貧乏であった。若死にした者が多かったが、それは、貧乏で、生活の悩みがあり、栄養も不良であったためではなかったか。二葉亭の追悼会の時坪内逍遥は、故人の実生活について語り、彼は一銭の負債もなく、一銭の貯蓄もなかったと言っていた。二葉亭が、朝日新聞の特派員としてロシアへ行った時には、多年の望みがかなったわけで、抱負も豊かであったらしかったが、モスクワに着くと間もなく不治の病気にかかり何のなすところもなく帰国の途につき、しかも航海中に病気が悪化するばかりで、ついにインド洋で絶命したのであった。

 二葉亭らしい死に方で、小説の材料としては面白いのだが、当人にとってはみじめな陰惨な死であったというべきだ。肺病にかかって早世した一葉の死も、自分で自分を、才女薄命の小説人物にしたようなものだ。小説人物としては読者の詩的涙を誘うのであるが、当人にとっては陰惨至極だ。

 高山樗牛は、生前、評論家として華やかに振舞っていたが、この人も肺患にかかって若死にをして、その死の知らせは、萬朝報の欄外に三行ばかり書かれたのに過ぎなかった。当時は文人の生死なんかは、一般新聞読者には注目されなかったのだ。國木田独歩(明治41.6.23)も肺病で倒れたのだが、この時は、読売新聞だけが社会面に一ペ-ジそっくりその死に関する記事で埋めた。こんな事は異例で自然主義の宣伝みたいであった。有名な政治家か軍人ならとにかく、一介の小説家をなぜこんなに御大層に扱うかと世人は奇異に感じたが、編集長も眉をひそめていた。私が強引にこんな事をしたように思われていたが、新聞記者の常識をそなえていた私は、そんなムチャな事をあえてするはずはなかった。若い三面記者が主筆を説いて気まぐれにやったのであった。

 川上眉山(明治41.6.15)のような自殺か、抱月、須磨子のような場合ならとにかく普通の文人の病死が、新聞記事として重々しく取扱われたのは、夏目漱石にはじまるといっていい。

 漱石の臨終の言葉として伝えられている則天去私は有名であるが、鷗外も逍遥も心を取乱さず、静かに死についたらしくうわさされていたが、果してどうであったか。緑雨が自分で死亡通知書を書残したのは、十返舎一九の辞世の狂歌みたいで、その人となりが見られるのであるが、勇敢な死にぶりは、私は岩野泡鳴において見られたのであった。彼は勇敢に生き勇敢に死んだ。

 彼は「死ぬやつはバカだ」と云っていたが「おれはおれの頭が役に立たなくなったら、舌をかんで死ぬる」とも云っていた。彼はチフスにかかってなおりかけた時に、リンゴを皮ごと食ったそうだ。彼は、リンゴには皮に滋養があると信じていて、健康時には皮をかじっていたので、病中にも、それを実行して身をほろぼすことになったのであろう。

 私も数人の知人の死顔をみたが、だれのにも平和も見られなければ、苦悩の力も見られなかった。死ぬる者はそれっきりといった感じがした。それぞれに人生を観たこと、自分自分の人生を生きたことをああいうふうに物に書き口にしたのであると、死者の顔を見たあとで追想していると、ああして生きてきた結果がこれなのかと、感銘されるのであるが、つまりはこれっきりかとの感じが私の心には浮ぶのであった。

 島村抱月の死は、須磨子の後追い心中もあって、世間で面白ずくの噂がにぎわったのであったが、私は、学生時代から敬意を寄せて接觸していたはずの彼とも、死生について語り合った事はなかった。さまざまな先輩や友人と、若い時から、学問の話、芸術の話、世間の雑話などをし続けて来たわけだが、しかしそれにもかかわらず、本当の事は話しもせず話されもしなかったのではないかと思う事がある。死顔を思い出していると、生きているうちに何かといっていたが、あれが当人の本当だったのかと疑われもするのである。

 先ごろ、私は二葉亭の文学談筆記を、ある場合に読んだが、その中に、私が彼を訪問した事も話されていた。自殺者藤村操の事(明治36年)が話題に出て、二葉亭が藤村も巖頭の感を書残すようではシャバに未練があったというと、私が「しかし、自分の書くものもすべて巖頭の感です」といったそうである。これは私の記憶にない事だが、その時の私でもまさかそんな気取った事は考えていなかったのではあるまいか。

 戯談(じょうだん)半分の言葉であろう。

 死ぬる眞際でさえ、本当の事はいえないかも知れない。

 

pagetop