(半蔵門だより)

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ハンゾーモン 半藏門 江戸城内郭の城門の一。一に麹町御門ともいふ。吹上禁苑の裏に當る。名稱は門内に服部半藏正就の屋敷があったので名づく。半藏御門。

出典:「大辞典」第21巻 昭和11年5月刊 平凡社 発行者下中弥三郎

抜粋 2022・6月

大衆文学における「文学者の生活」の研究 〔1〕 坪内逍遙著「柿の蔕」より

田沼

回想 「はじめての関西旅行」 破格な待遇と其頃の「大朝」

 美濃の山猿と生れて、十歳から十八歳までは名古屋で育ち、それから東京に住んだつきり、どこも知らなかった私は、学校の休暇を幸ひ、二十年の夏はじめて京阪廻りを思ひ立った。さて、第一の憧れの的であった京都を一通りほつつき歩いて大阪へ廻ると、それまで何等の緑故もなかったにもかかわらず、朝日新聞社から非常な歓待を受けた。たびたび料亭へさそはれて、懇ろに饗應されたり、本社へ招かれたり、当時東京の新聞社なぞでは、まだどこにも備へ附けてなかった筈の大仕掛けな印刷機械を見せられたりした。

 「百事悉く分業に成れるのみか、何事も皆社内にて成る。結構、設備至れり尽せり。大印刷機八台あり。蒸気の装置目を驚かす」云々、と私の古日記に明記してある。

 この時、村山氏にも、故上野氏、故岡野武平氏、最近亡くなった宇田川文海氏、故織田純一郎氏その他にも初めて会った。いづれも一見旧知の如く、非常な好意をもって歓待してくれられた。上野氏からは頻りに入社を勧められた。

 年に二回小説を書いてくれればいいから、是非入社して貰ひたいといふ事であったが、はじめは固く辞退した、まだ何分にも世の中に出たばかりで、自分の力量が覚束ないからといって。

 ところが、老練な上野氏、この世間知らずの生一本を説くには、やはり生一本式がいいと見て取ったのか、或ひはあれが氏の性来であったのか、或ひは当時の大阪紳士の慣例であったのか、なほ押返して、まるで長い交際の親友同志の談判のやうな調子で、親切に且つ真面目に、或ひは洒脱に、磊落に、料理通になったり、花柳談をしたり、社内の内幕までも打明けるやうにしたりして、再三入社を勧められたので、しまひには、無碍に断り切れないやうな破目になった。

 待遇条件はそのころとしては破格といってよかった、早稲田で貰っていた俸給の四倍以上であったから。(専門学校の月給は四十五園だった。)で、それに対しては無論不服はなかったが、早稲田との関係、二つには自分の修養上の利害、それらがまだ未決着なので、やや心は動きながらも、いづれとも返答はせないで帰京した。もっとも、心の動いたのは、朝日社の厚待のためよりも、外に一つの力強いアトラクションのためであった。

 早合点しちゃいかんよ、それは御馳走の席で拝顔した大阪美人なんぞのせいぢゃないよ。はじめての関西旅行に際して、見ないうちから、最も強いあこがれを感じていたのは京都の風光であった。出立前に『都名所図絵』式の諸著は勿論、手許にあった京都に関するあらゆる文献は漁り尽し、読み返し、さうしてそれを『源氏物語』以来のロマンスに関連させて、いろいろに空想し、揚句の果に、例の雅俗折衷の馬琴式七五調か何かで「夢に京都に遊ぶ」といふ長文までも草して見たりしたものだ。それから、この夢想が果してどの程度まで的中するかを味はふためには、成るべく東京から一足飛びに京都に入りたいと望んだ。学生時代に東海道は、前後六七回も、しかも多く徒歩で往復しているから珍らしくない。名古屋以西も木曾川附近までは知っている。何とかして、済し崩し式でなく、一気に水紫水明にぶつつかる工夫はないかと思った。

 今なら寝台車、いや、それよりも遙かに便利な飛行機といふものがあるのだから、そんなことは朝飯前だが、あの時分はさうはいかない。で、時間を量って、大津あたりから次第に昏くなるやうな段取にして、全く夜に入ってから京都へ入った。たしか柊屋に泊った。翌朝、目から覚めると、忽然として身は昔の都に、加茂川に、東山に、嵯峨野に、醍醐に、といふ誂へであったのだ。

 それほど京都にはあこがれていた。さうしてそのころの京都は、嵐山でも、加茂川でも、今に比べると、遥かに昔ながらで、懐かしい、床しい風物の都であった。

 もしも朝日社へ入ることとなったら、居は是非京都在に卜して、大阪の社へ出勤し、二ヶ月に二週間づつ東京へ何かの社用を兼ねて出ることにしたいと上野氏へ話したところ、その要求が異議なく容れられた上に、無遠慮に提案した五六ヶ条の紙面改良案も「直ぐには実行出来ないかも知れないが、村山社長も承諾の事だから、漸次にはきっと実行しよう」といふ上野氏の口約まで得たのであった。で、いよいよ心は動いた。

 そのころはまだ二十台の己惚れ盛り、一つは時勢の然らしめたところ、二つには兎も角も政治経済の学を修めて東京大学 (後の帝大)を出たばかりの際であったので、人並に政治論や社会改良策などを口にしていたものだ。だから、朝日社の要求は、主として、年二回の小説起稿であったのだが、私は自分から進んで論説をも書かうといひ、且つ数ヶ条の改良案を提議したのであった。同じ日記によって、其要旨を読んで見ると、『朝日新聞』其ものもだが、わが文化全般の今昔の差の著るしいので驚かされる。

 例へば、私は続き物の挿絵を漸次縮小して、もつと記事を増加されたい。論説を毎日にして、政治、経済と限らず、拾く社会萬般の事柄にわたって啓蒙の任を尽すことにしたい、東京における習俗、気風の変還に間断なく留意して、それに後れぬやうにするために、やや小説的な書き方で、それらに関する報道を毎日毎日一二回づつ紙上に掲げることにしたいなぞといっている。

 また「朝日を改良するは改良の最も容易なるものなり、何となれば、その実力堅牢なればなり、他の社の改良は十の九までは危急を救はむための策にして眞の改良にあらず、むしろ止むを得ざるに出づる改革なり」、「朝日は今のところ、をしむらくは単に才色兼備の佳人たりといはんのみ、萬人に愛せらるべし、未だ敬せらるるに至らず」なぞと無遠慮な評をして、自分が入社すれば一廉の役に立って、大進歩が出来るらしい己惚れを並べている。見事、準政治家気取りだから大笑ひである。

 帰京してから、家人にも、親友のT.S.にも謀った。家人も反対、其も不賛成で「君は情の人だ。情の人にしてはプル-デントな方ではあるが、情に脆いだけに、うっかり深入りしさうで、考へ物だよ」といった。それに、早稲田の学校もその頃はまだ生存苦闘の眞最中であったのだから、だしぬけに脱け出すのも不人情なやうにも感ぜられ、それこれ、朝日社の折角の懇偶を無にするやうで、甚だ済まないとは思ったが、とうとう悉しく事情を具して、上野氏へ断りを出した。

 今になって考へると、入社せなかったのは自他の利益でもあったらう。小説家の似而非政治論や経済策や社会改良説は、久しからずして社の、また読者の、持て剰し物となったらうし、柄にもない方面へ深入りしたら、自分としても、その立場に迷ふことになったであらうから。

 因みに、早稲田専門学校の月給は四十五圓だったと書いたが、経営困難の為、主任講師たるものは、めいめい一割づつを毎月学校へ寄附するのが例になっていた。

(以上昭五、二月稿)
(抜粋2022年6月 田沼)

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