(半蔵門だより)

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ハンゾーモン 半藏門 江戸城内郭の城門の一。一に麹町御門ともいふ。吹上禁苑の裏に當る。名稱は門内に服部半藏正就の屋敷があったので名づく。半藏御門。

出典:「大辞典」第21巻 昭和11年5月刊 平凡社 発行者下中弥三郎

2022・5・22

大衆文学における「日常」の研究〔2〕※1  田山花袋著「東京の三十年」より

田沼

 

  出発の軍隊--日清戦争

  「軍歌の声が遠くで聞こえる」--海行かば 水漬く屍 山行かば・・・

 

 私の家から青山の練兵場へは、距離にして幾らもないので、私は夜など出発の軍隊の光景を見るために、よく一人で出かけて行った。

 外国との最初の戦争、支那は弱いとは言え、兎にかくアジアの大勢力なので、戦争が始まってからの東京の騒ぎは非常であった。号外の鈴の音が絶えず街頭に響きわたって聞こえた。

 時には軍隊が軍歌を歌って、勇ましく列を作って通って行った。銃剣が日に光った。

 かと思うと、戦捷(せんしょう)の号外で、街が日章旗で埋められるようなこともあった。絵草紙屋--まだそういうものが沢山に残っていたが、そこには、松崎大尉戦死の状態だの、喇叭を口に当てて倒れた喇叭卒だのの石版画がこてこてと色彩強く並べて見られた。いろいろな軍歌、なども出来た。

 青山からレールを大崎の方へ連絡させて、出発の軍隊は、皆なそこから立たせることになっていたので、夜の青山の原の光景は、悽愴(せいそう) の中に別離の悲哀をこめて、何とも言われない張りはりつめた感じを人々に与えた。

 何でもその頃は別々な方面に上陸する軍隊の輸送が始まったという噂で、都会の人々の心は皆な熱心な熱情と好奇心に駆られて、ソワソワと落着かず絶えず何物かに奪われたような形になっていた。成熟した人ですらそうである。まして私のわかい張り詰めた心をや。

 私は遠い戦場を思った。故郷にわかれ、親にわかれ、妻子にわかれて、海を越えて、遠く外国に赴く人達のことを思わずには居られなかった。また、さびしいひろい野に死屍となって横たわっている同胞を思わずには居られなかった。私は戦争を思い、平和を思い、砲烟の白く炸裂する野山を思った。自分も行ってみたいと思った。牙山の戦い、京城仁川(じんせん)の占領、つづいて平壌のあの大きな戦争が戦われた。月の明るい夜に、十五夜の美しい夜に・・・。

 青山の原はすべて柵で囲われて内部は少しもわからなかった。しかし喧騒と混雑とは、軍隊の出発していくさまを私に想像させるに十分だ。人の歩く音、馬の跳ねる響き、汽車の機関車からは、黒い白い烟が絶えず上がって、昼のように明るい瓦斯燈(ガスとう)の青白い光を掠(かす)めては消え、掠めては消えた。

 軍歌の声が遠くできこえる.....

 それは悲壮な声だ、人の腸(はらわた)を断たずにおかないような、又は悲しく死に面して進んで行く人の為に挽歌をうたっているような声だ。

 烟は絶えず瓦斯(ガス)の光を掠めた。

 やがて汽車の動く音がする。ゴォという音、ゴトンゴトンと動く音、続いて「万歳!」という声が夜陰を破って聞こえた。

 私は淋しい悲しい思いに包まれて家に帰って来た。

 これに限らず、全て--都会も田舎も全て興奮と感激と壮烈とで満たされていた。万歳の声はそこ此処で聞こえた。

 その年の秋、私は一蓑笠(いちさりゅう)、一草鞋(いちそうあい)で、浜街道を水戸から仙台の方へ行った。どんな田舎でもどんな山の中でも、戦捷(せんしょう)の日章旗の風に靡いていないところはないのを私は見た。人々は戦捷の祝いだと言っては呑み、出発の別離だと言っては集まって騒いだ。

 それに砲兵工廠の活躍した煤煙の光景は、今でも私の目にちらついて見えた。勿論、其の時は日露の戦役の時ほどでは無かったけれども、それでもその水道橋、小石川橋の一区画は、青い、黒い、白い煤煙で凄まじく塗りつぶされているのを私は見逃さなかった。

    海ゆかば、水漬く屍(かばね)   ※2

    山行かば・・・・・

 そういう気が全国の民に一体に漲りわたっていた。

 維新の変遷、階級の打破、士族の零落、何うにもこうにも出来ないような沈滞した空気が長く続いて、そこから沸きだしたように漲りあがった日清の役の排外的気分は見事であった。戦争罪悪論などは、まだその萌芽をも示さなかった。

      ※1 この文章の時期は、明治27年ごろのことであろうと思われるから作者の田山花袋は
         24歳で紅葉門に入れてもらって、江見水蔭の雑誌「小桜縅」を手伝い始めたころ。
         小説「瓜畑」の発表前後。
      ※2 明治31年、日露戦争がはじまると、新聞社の写真班員として中国に従軍した。
         「海行かば」は陸海軍共通の儀礼歌として、明治13年に将官に対するものとして制
         定された。
          詞は万葉集の大伴家持の長歌からとったが、はじめの曲は、宮内省雅楽部の東儀
         季義の手になるもので、明るいものであった。
          現在知られている荘厳な曲は、東京音楽学校教授の信時潔がNHKの依頼を受けて
         昭和12年に発表したものである。
          作詞は一部変更されて「のどには死なじ」から「かえりみはせじ」になった。
                   「海行かば水漬くかばね、
                     山行かば草むすかばね、
                     大君のへにこそ死なめ、かえりみはせじ」
 
 
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